合気道を稽古していると時々耳にする言葉に「正勝吾勝(まさかつあかつ)」というものがある。古事記に出てくる神様の名前「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」から来ているとのことで、もともとは「正しく勝った、私が勝った」という意味だそうだ。
だが合気道的な文脈では、「正しいことをしていれば負けることはない」という感じの意味合いで用いられることが多いように思う。
僕の解釈では、「正しい姿勢、正しい間合い、正しいタイミング、正しい動き、そして正しい心の持ち方が身に付くよう稽古せよ。大事なことは、相手に勝つのではなく自分に勝つことだ」ということではないかと思っている。
試合の無い合気道では、相対する相手は敵ではなく自分を磨くための重要なパートナーであり、さらにはまさに自分そのものを映し出す鏡として存在する。(自分が間違った動きをすれば相手をうまく投げることができない。)要するに合気道は、「正勝吾勝」の心で稽古する中でたまたま相手に負けない力が身に付くのであって、相手に勝つために稽古しているのではないということなのだ。相対的に生じる結果を目的とするのではなく、自分自身の絶対的なあり方を探究するそのプロセスを重視する態度と言ってもいい。
合気道は武道だが、そのような態度は美術も同様なのではないかと思っている。(僕が合気道を気に入ってずっと稽古し続けているのは、合気道に「美術」を見ているからなのだが・・・。)
美術には本来勝ち負けは無い。それは、自分とは何かを探究し、自分のテーマを追求していった末に到達できるであろう地平を目指し、自分がやるべきことをひたすら実践していくことが基本であり、そして、そのような優れて個人的な営為が逆説的に他者とのコミュニケーションの回路を開いていく。
その限りにおいて、生じる質は本質的に多様であるべきで、人と比べてどうだ、ということは本来無いはずなのだ。
(それは、他者は関係ない、自己中心的でいい、という態度ではないことは言うまでもない。「正しい姿勢、正しい間合い、正しいタイミング、正しい動き、そして正しい心の持ち方が身に付くよう」取り組むのだから、そのためにはいろいろな知識・技術を身につけることに加え、身の回りの様々な物事の参照/相克は不可欠だ。言い換えれば、心を開いて様々な物事を受け入れ、そしてその関係性によって成長させていただくのである。)
僕は、合気道がそうであるように、美術は「総合的な人間力」を涵養するための非常に有効な方法論の一つだと思う。合気道が「正勝吾勝」の心でひたすら稽古を繰り返すことで「人間」を錬磨する武道であるように、美術は「美しいものとは何か」をひたすら問い続け、それを形にしていくことで「人間」を磨いていく。
今年も当研究室からたくさんの研究生が巣立っていき、それぞれの大学で美術(僕がここで言う美術は広義のものです)に取り組んでいくが、大学で「自分とは何かを探究し、自分のテーマを追求していった末に到達できるであろう地平を目指し、自分がやるべきことをひたすら実践していくこと」は、必ずそれぞれの人間力を向上させ、(将来、仮に美術に関係する仕事に就かなかったとしても)いろいろな立場に於いて社会で活躍できる力を育てるはずだと思う。もちろん、自分が学んだ勉強そのものを生かせる道に進んでいけばそれはそれで素晴らしいことだ。
当研究室室を修了される皆さんの大学生活が、夢中になって勉強に打ち込むことで自分自身の道を見つけ、それを少しでも深めていけるようなものであることを願っています。(Y.O.)
(この文章は、松尾美術研究室のブログ "マツオ・アートログ”への2011年3月22日付けの投稿を転載したものです。)