先日、図書館に行ってビデオライブラリ−をみていたら、僕の好きな映画が沢山収蔵されていたので、何本か借りてきて観直してみることにした。そのうちの一本が、この「ベルリン・天使の詩」です。
この映画は封切り当時、ロードショーで観た。1988年頃だと思う。当時この映画はあちこちで話題になっていて、そうした評判の良さを知ったことから映画館に足を運んだものと記憶している。観終わって、これは静かなものながら啓示に満ちた、とても深い感動をもたらす希有な映画だと感じた。今回観直してみて、やはりその時に感じた気持ちは変わらなかった。その上、物語や台詞やシーンの細部を非常に良く覚えていることに驚いた。
映画は、主演のブルーノ・ガンツの声による印象的な詩(ペーター・ハントケ)の朗読から始まる。そして映画の全編に渡ってこの詩が通奏低音のように響いている。
子供は子供だった頃
腕をブラブラさせ
小川は川になれ
川は河になれ
水たまりは海になれと思った
子供は子供だった頃
自分が子供とは知らず
すべてに魂があり
魂はひとつと思った
子供は子供だった頃
なにも考えず
癖もなにもなく
あぐらをかいたり とびはねたり
小さな頭に 大きなつむじ
カメラを向けても 知らぬ顔
・・・・・・・・・・・・・
東と西を分ける壁のあるベルリンの街で、たくさんの天使たちが活動している。彼らは歴史のはじめから存在し、人間たちの営みを観察し、人間たちの心の声に耳を澄まし、それを淡々と記録し続けている。彼らには時間はなく、感覚もない。彼らは状況に介入する術を持たない、いわば「形式的」で無力な存在なのだ。
自らの経験を持たない単一的な存在である天使が、どうして人間に憧れ、人間になりたいと思うのだろう。「偶発的なゆらぎ」としか言いようのないことだ。サーカスのブランコ乗りの女性(マリオン)に恋をしたことで「ゆらぎ」が生じたのか。「ゆらぎ」が生じたから恋をしてしまったのか。
一人の天使が人間になる。マリオンも夢の啓示によって自分の前に一人の男性が現れるだろうことを予感している。
そして、ベルリンの街のある場所で彼らは巡り会う。
その、必然のように巡り会い、その必然を当然のように受け入れるマリオンのモノローグが僕は好きだ。それは、形式的で傍観者的な存在から、自分の意思によって、身体を持って自らの歴史を作って行く存在となった「かつての天使」と響き合い、さらには、1〜2年後には壁が崩壊し歴史が動きだすであろうベルリンの状況を予感させてもいる・・・・。
天使の目から見たモノクロームのベルリン、子どもたちの天使との語らい、その暖かいまなざしと微笑み、瀕死の人物のモノローグと励ます天使、図書館に響く沢山の詩と物語に耳を傾ける天使たち、かつてのベルリンが失われてしまったこと、世界が黄昏の中にあることを嘆きながらも、来るべき平和の叙事詩のための語り部であり続けようと言葉を紡ぎ続ける老詩人・・・・。
これからも僕にとって、大切な映画であり続けるでしょう。(Y.O.)
(この文章は、松尾美術研究室のブログ "マツオ・アートログ”への2011年9月8日付けの投稿を転載したものです。)