タルコフスキーの映画はほとんど観た。「僕の村は戦場だった」、「アンドレイ・ルブリョフ」、「惑星ソラリス」、「鏡」、「ストーカー」、そして「ノスタルジア」と「サクリファイス」。そればかりか、イタリア滞在中には「ノスタルジア」のラストで印象的に登場する、あの天井のない朽ちた教会堂を観にトスカーナの片田舎の村を訪れたこともある。
タルコフスキーの映画は一本の樹のようだ。主題となる幹から沢山のエピソードが枝葉に分かれる。しばしば、こんなエピソードが話の進行に何の関係があるのか?と思えるが、それらは遠目から観ると、枝葉のようにそよぎながら緩やかに関係し合い、樹のフォルムを形作っていることがわかる。
効果音やBGMでドラマを盛り上げることもないし、登場人物の動きは緩慢で、遠景を多用し、そのうえワンカットが異常に長く、エピソードが主題に対して予定調和的にまとめられてもいない。そうした意味では、タルコフスキーの映画ほどハリウッド流の映画から遠いものはない。
タルコフスキーの映画を観た後にいつも思うのは、その話の内容よりは、映画を支配する圧倒的な静寂と、水、風、霧、火、光、そして闇の印象だけが鮮烈に残っていることだ。もしかしたら、タルコフスキーの映画はそうした「自然現象がドラマツルギーによって構築されたもの」だと言えるかもしれない。
もうひとつ、タルコフスキーの映画にあらわれる草原。その何の変哲もない草原が、彼の映画の中では特別な場所となる、その不思議。
神に自らの家を捧げる燔祭の場所として(「サクリファイス」)、未知なる存在の支配する力のフィールドとして(「ストーカー」)、ソラリス上に仮構された追憶の場所として(「惑星ソラリス」)。風にそよぐ雑草、その一本一本がタルコフスキーの映画の中では特別な存在となる。
ところで、「ノスタルジア」と「サクリファイス」の両方に、現在の人間の文明の有様を憂い、それを何とか変革させたいと願う初老の人物が登場する。演じているのは、どちらも同じエルランド・ヨセフソンだ。(それぞれの映画で別人として演じられている。)この人物は、「ノスタルジア」ではローマのカンピドリオ広場のマルクス・アウレリウス騎馬像の上で、人間文明を警告する演説を行った上で自らを燔祭の犠牲として捧げる。また「サクリファイス」では、来るべき最終戦争を回避させてくれた神への感謝として自らの家を燔祭の犠牲として捧げる。
どちらも普通の人から見れば常軌を逸した、考えられない行為としてしか映らないことだ。だが、今回、この2つの映画を見直しながら、最近読んだ批評家の内田樹氏のエッセイを思い出していた。
『「存在しないもの」との折り合いのつけ方について』と題されたそのエッセイで、内田氏は能楽を例に挙げながら、以下の様に述べている(以下、再構成して引用)。
私たちは「存在しないもの」に囲繞されている。
「存在しないもの」は「存在するとは別の仕方で」 私たちに「触れてくる」。
「存在しないもの」は秩序の周縁に、理性の統御が弱まるところに出現する。そこをある種の「受信能力」を備えたものが通りかかると、それを手がかりにして、「それ」は境界線の向こうから「漏出」してくる。
「存在しないもの」たちと「交渉する」ためにはどのような能力が要るのか、どのような技法がありうるのか。
能におけるワキの多くは「旅の僧」である。
彼は秩序の周縁である土地に、日のくれる頃に、疲れきってたどり着く。
彼はそこに何らかの「メッセージ」をもたらすためにやってきたわけではない。
むしろ、何かを「聴く」ためにやってきたのである。
彼はその土地について断片的なことしか知らない。だから、その空白を埋める情報を土地のものに尋ねる。
そして、その話を聴いているうちに眠りに落ち、夢を見る。
これが「存在しないもの」との伝統的な「交渉」の仕方なのである。
(そのような能における「旅の僧」のような、所謂)「ゲートキーパー」は境界線を超えて「漏出」してくる「もの」たちを防ぎ止めることを主務としている。
ただし、「防ぎ止める」というのは「追い出す」ということではない。
そうではなくて、「お引き取り願う」ということである。
むりやり境界線の向こうに押し戻すのではなく、できることなら、自主的に「帰る」ように仕向けることである。
でも、「じゃあ、帰る」と言わせるためには、その前にひとしきり、彼らが「じたばた」するのに耐えなければならない。
デリケートな仕事である。
そして、その一場の劇が終わったとき、「それ」は立ち去り、私たちの世界と「存在しないもの」の世界のあいだの「壁」の穴は修復され、「ゲート」は閉じられる。
そのような仕事を私は「インターフェイスのメンテナンス」と呼んでいる。
それは積極的に何か目に見える「価値」や「意味」をもたらすわけではない。
「災厄が起こらなかった」というのが、彼らの仕事が順調に推移している証拠なのだが、「起こらなかった災厄」をカウントする計数能力が私たちにはない。
だから、彼らはふつう誰からも感謝されず、誰からも敬意を示されない。
かつて「遊行の民」と呼ばれた人々は、この社会的な責務を担っていた。
その「呪鎮」儀礼は古代から、もっぱら音楽と舞踊と詩歌の朗唱を通じて行われた。
だから、私たちはせいぜいこの芸能を享受したり、巧拙を論じたり、それについての美学を構築するような迂回的な作業を通じてしか、この働き人に報いる方法を知らないのである。
(以上、引用終わり。)
「ノスタルジア」と「サクリファイス」に登場するこの初老の人物は、内田氏の言う「ゲートキーパー」に重なって見えてしまったのだ。
彼は起ってしまった危機的状況を英雄的な行為によって解決したのではなく、危機的状況が起こらなかったことこそが彼の成し遂げたことなのだ。それゆえ彼の行為は普通の人からすれば常軌を逸した行為のようにしか見えない。しかし、「漏出」する「存在しないもの」とのコミュニケーションによって、映画の中では彼は確かに何事かを成し遂げたように見える。思えば、タルコフスキー映画の主人公の寡黙さと忍耐強さ(「ソラリス」然り、「ストーカー」然り、「ノスタルジア」と「サクリファイス」然り)は、「受信能力」に優れ、「存在しないもの」との交渉を忍耐強く行う使命を課せられたが故なのであろう。前述の「タルコフスキーの草原」の不思議さは、「存在しないもの」がその境界を越えて「漏出」してくるフィールドなのだと理解すれば、納得もできる。
(ただ、急いで付け加えなくてはならないのは、タルコフスキーはこうした「ゲートキーパー」の行為を一方では胡散臭いものとして捉える視点を放棄していない。「ノスタルジア」では、燃え上がる老人の背後に彼をサポートする黒幕のような奴がいるし、「サクリファイス」のラストの燃え上がる家を背後にしたあの長回しのシーンはまるでドタバタ喜劇のようだ。そのように描くことによってタルコフスキーは「ゲートキーパー」の行為を相対化しようとしたのではないか。)
タルコフスキー最後の映画となった「サクリファイス」では、全てを語り尽くしてしまおうとするタルコフスキーの焦燥のようなものが見える気がする。そして確かに、タルコフスキーの映画を特徴づけている全てのエレメントが「サクリファイス」の中に凝縮されているのを観る。
「サクリファイス」は、「存在しないもの」と対峙しながら、一本の見事な大樹として「この地上の一つの場所に」立ち尽くしている。(Y.O.)
(この文章は、松尾美術研究室のブログ "マツオ・アートログ”への2011年9月11日付けの投稿を転載したものです。)