今日は午前中、京都国立博物館で開催している「畠山記念館の名品」展に行ってきました。
牧谿の「煙寺晩鐘図」を観たいがために足を運んだのですが、本阿弥光悦+俵屋宗達の「四季草花下絵古今和歌集巻」がタイミングよく観れたのも幸運でした。この2点の間を行ったり来たりしながら気がすむまで観てきました。
牧谿の「煙寺晩鐘図」は、単眼鏡で細部を観ると結構ラフな筆致なのですが、離れて観るとそれらが絶妙なトーンの中に溶け込んでいき、本当に湖面から立ち登る水煙の向こうに森に包まれた夕暮れの寺の風景が立ち現れてきます。その光や大気の表現は本当に見事ですが、それが水墨画という即興的な技法でなされていることを考えると奇跡的だと思わざるを得ません。
また、この絵は元々は「瀟湘八景図」という長い画巻の一部だったそうで、おそらく鎌倉時代後期に日本に招来された後で、茶室の床の間に掛けられるように切って表装されたらしいのです。切ってしまうなんて乱暴な・・・と思いながらもその切り方のバランス感覚は、それはそれで素晴らしいとは思います。
光悦+宗達の「四季草花下絵古今和歌集巻」は、長い画巻の右端から順に、竹、梅、桔梗、蔦が金銀泥を使って即興的に描かれています。その下図の意匠の変化/展開や絶妙な「間」の感覚、そして宗達が草花を描き出すその筆遣いが本当に見事ですが、その上に光悦の書がそれらに呼応するように流れていきます。その展開を追いながら最後まで見終わった時には、何かクラシック室内楽の名曲を聴き終わったかのような充足感を感じることができます。
一方でコレクションの大半を占める茶道具の名品というもの中では、「からたち」という銘の伊賀焼の花入が迫力がありました。土の塊が地面から意思を持ってせり上がって形を成したかのような力強い造形力でまず目を引きますが、よく観ると口の部分が焼成中に窯の中で爆発して割れたのでしょうか、その破片が釉によって胴にくっついていたり細かい土の粒が降り積もっていたりしていて、かなり荒々しい表情です。
以前読んだ画家・宇佐美圭司の著書「廃墟巡礼」の中で、宇佐美は訪れたタイ・アユタヤ遺跡の仏像に、長い時間の経過の中で崩れながらもそれによって完全なかたちだった時にはなかった新たな美が生じているのを見、それを「崩壊美」と名付けました。この「からたち」という花入もそうした「崩壊することによって生まれた美」を茶人たちが見出し、珍重して来たということなのでしょうか。このような発見と価値の転換は、旧来の価値観には囚われない柔軟な心が見いだすものだと思いますが、このような心があらゆるアートの基底にあるのだと思います。(Y.O.)