私は今回の展覧会に出ている作品の多くをリアルタイムで見ているので、80年代当時の状況から切り離された作品を3〜40年を経て見直したときどのように見えるかに興味がありましたが、やはり当時の記憶がオーバーラップして客観的に見るのは難しいですね。
展示されているもののいくつかは、制作しているところを直に見ていたり、搬入を手伝ったり、一緒にグループ展をしたり飲みにいったりした作者の作品でもあるので、他者の作品ではあるもののあまり距離をとって判断できないということもあります。作品そのものがどうかということを超えて、丸ごと私にとっての80年代の体験の中にあるという感じです。
90年代になると、湾岸戦争に始まり、バブル経済の崩壊、ボスニア紛争、阪神淡路大震災、酒鬼薔薇事件、地下鉄サリン事件などが続け様に起こり、私にとっても急激に「"表現" にとって難しい時代になったな」という実感がありました。アートは個人から発するものであったとしても、その個人はやはり社会的な「現実」との対峙を余儀なくされるからです。(とりわけボスニア紛争と阪神淡路大震災は私にとっても大変リアルな問題を突きつける事件でした。)実際、90年代のアートは、シミュレーショニズムやネオポップなど、80年代のアートの持っていたある種の楽天性はなくなっていったように感じます。
今にして思えば、80年代のアートは ー大変雑な言い方ですがー 東西冷戦のはざまに特例的に生じたユートピア的な表現群だったと言えるのかも知れません。
ただ、上記の金沢21世紀美術館の80年代展のタイトル「起点としての80年代」が示唆するように、80年代に萌芽した新しい表現形式(インスタレーションやビデオアート、パフォーマンス、ジャンルのハイブリッド性など)や、内容(私小説性、物語性の復活、バナキュラー性、美術史や歴史からの引用など)、そして表現の多様性の肯定や、手仕事性への回帰といった80年代アートの特徴は、それ以降のアートへと引き継がれて現在に至っています。実際、現在活動している次世代以降の作家たちの表現の中に80年代アートのDNAを感じることがよくあります。
今回の「関西の80年代」展の副題「80年代は過去じゃない」というのも、そういう意味ではないかと思っています。(Y.O.)