初心


 このデッサンは、今回の冬期講習で初めてデッサンを描いた中学3年生の作品です。モノを一生懸命に観る集中力と、使い慣れない道具と方法論を頼りに、戸惑いながら何とかそれを形にしようという初々しい感覚が同居していて、みていて清々しい気持ちになります。

 

 この絵をみていて「初心」という言葉を思い出しました。室町時代の能楽の大成者・世阿弥の「初心忘るべからず」という言葉が有名です。

 一般的には、この言葉は、「ものごとを始めた時の初々しい気持ちや志を忘れないようにしよう」という意味で使われています。しかし、能楽師の安田登は、世阿弥自身はそのような一般的な意味よりはさらに深い意味をこの言葉の中に込めていると説明しています。すなわち、「折あるごとに古い自己を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない」(「能ー650年続いた仕掛けとは」新潮新書)という意味であると。

 また能楽評論家の土屋恵一郎は、「未熟であった時の最初の試練や失敗こそが初心という言葉の本当の意味である」「それがなんであれ、未だ経験したことのない事態に対して、自分の未熟さを知りながら、その新しい事態に挑戦していく心の構えであり、姿に他ならない」(「世阿弥の言葉 心の糧、想像の糧 」岩波現代文庫)と解釈しています。

 どちらの解釈にも通底しているのは、「新しいことに挑戦することで、これまでみたこともなかった新しい自分に出会う」ということだと思います。つまり「初心」とは、懐古的に見出されるものではなく、まさに「今ここ」に生じるものであるということです。

 

 そう考えると、デッサンを1枚描き上げることは、いつでも、一つの「初心」です。モチーフをひたすら観察し、そこから得た感覚をできる限り正確に、何とか紙の上に移そうと奮闘することによって、結果的に、未だ描かれたことのなかった絵が現れます。そしてそれと同時に、その絵を描き上げた「それまでとは違った新しい自分」がそこにいます。

 こうして教室には、毎日毎日、それぞれの描き手の「初心」があります。そして、私たちスタッフもその「初心」に立ち会っています。そのことをあらためてこの絵が思い出させてくれました。(Y.0.)